亡き父をふりかえる①

父と幼いぼく

茨城で出会った、亡き父の縁 

「君は憲三(けんぞう)さんの息子なのか?」と言ったのは、茨城空港近くにある空のえき「そ・ら・ら」の元館長、河原井忠男さん(以下、駅長)。「そ・ら・ら」は妻が以前働いていた場所で、駅長にはお世話になっていた。久しぶりにランチをご一緒していたとき、ひょんな事から学生運動の話になり「青森に、坂本という俺の先輩が居たんだ」と駅長が言うので、「青森の坂本で東京教育大学なら、僕の父しかいないですよ」と答えたのであった。父は9年前に亡くなっていた。

東京教育大学(現:筑波大学)

父と駅長は東京教育大学の卒業生だった。駅長の口から父の名が語られた時は不思議な感じがした。父に会いに青森まで足を運んだこともあるという。思えば、母や姉から父の事を聞いたことはあったが、父の交友関係は知らなかったし、縁もなかった。駅長から語られる父の話は新鮮だった。その後、駅長から父の生前書いたもののコピーを送って頂いた。父を良く知る清水さんという方が送ってくださった。学生時代の事や、仕事、家族の事について書いてあった。知らなかった父の一面を知る機会になった。

父の記憶

父は不器用な人だったとおもう。僕も似ているところがある。僕と違うのは働きながら苦学していた所だ。学生運動に関わり合い、何度も留年を重ねてようやく大学を卒業した父は、都内で仕事する道を歩む最中、心の病を患って帰郷する。移転問題という都会のイデオロギー同士のぶつかり合いの中で、自分の立ち位置を定めるためには、ひたすら自分のできることに向き合う他なかったのではないか。田舎者が何かしら影響力をもてるとしたら一つの事に朴訥と取り組むしかないと思っていた僕自身の学生時代と重なった。それから数日後、駅長から連絡があり父の知人が僕に会いたいと言うので快諾した。当日は息子の梧練(ごろう)をつれていった。コピーを送っていただいた清水さんと真木さん、駅長と食事しながら色々と話をした。父は多くの人に愛されていた事を知った。亡くなった後、数年経っても思い、語る人がいることは、父の人生が様々な人に影響をあたえた証左だと思った。父を礼賛するわけではないが、一人の生き方を識った想いだ(坂本)。

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こちらは下記ニュースレターからの抜粋になります。

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