坂本健介の物語

目の前で完成したデザインを
眺めながらふっと息を吐く。
私はこの瞬間がたまらなく好きだ。

クライアントの希望を
しっかりと胸に落とし、

それから
私にしか出来ない作品を
作り上げていく。

それは、
同じものは何一つない

世界で唯一、
クライアントの為だけに
つくりあげる作品たちだ。

数日後には
何万部と刷られた
私のデザインは流通し、

魔法のように
多くの人の心に
作用するだろう。

新しい提案書を
手に取ると、

たまらなく
わくわくした
気持ちになれる
自分がいる。

今でこそ、
こうして多くの信頼を頂き、

クライアントの
想いやそこにこめられた願いなど、
目には見えないものを
表現したデザインを

提供していくことが
出来るけれど、
最初から順風満帆だった訳ではない。

苦労や別れを経験した。
多くの悩みにぶつかった。

だからこそ、
仕事に架ける熱意や、
意欲が一層高まっていったのだ。

とはいえ、
笑って話せるように
なるまでには時間がかかったことも事実。
これは、そんな私の物語である。

表現への目覚め

おばあちゃんと僕

私が生まれたのは
昭和56年の10月。
青森県の青森市で生を受けた。

この頃の記憶は
あまり残っておらず、

家に散らばっていた
大工道具の記憶が何故か鮮明だ。

これは大工だった
祖父の一周忌に
私が生まれたため、
生まれ変わりだと

言われていたこともあって
覚えているのかもしれない。

ちなみに、
父も一時期は
大工をしていたのだと後から聞いた。

頭がよく、
繊細であった父が作った家は
さぞかし住みやすいものだっただろう。

繊細と言えば、
もう一つ覚えていることがある。

ある日、
父が大学ノートに
私の似顔絵を描いてくれた。
その描写が妙にリアルで、
さらっと書いていたはずなのにと
幼い心に大きな衝撃が走る。

鉛筆一本で、
ここまで描くことが
できるのかと幼心に驚いたのだ。

初めて絵に触れた日、
もしかしたらこの時に
私の未来は決まっていたのかもしれない。

もし、そのままそこに父がいたのなら、
私は父を真似て
空いた時間には
一緒に絵を描いていただろう。

父と僕

しかし、
私が父と暮らした日々の記憶は
それから少し後で途切れている。

両親が離婚したからだ。

後から知ったことだが、
末は博士か大臣かと
言われていた父は
その頭脳を買われ
学生運動へと巻き込まれた挙句に
心に病を患っていたらしい。

病を抱え、
職を転々と
するしかない父の姿を
母がどう見ていたのかは分からないが、

経理の仕事で
それなりに安定していた母は
子供を第一に考えることを選んだのだろう。

その日は突然訪れた。
風邪で寝込んでいた私を
起こす母の声。

「どうしたの?」

「起きて、支度をするのよ」

病院にでも行くのかと思ったが
どうやらそうではないらしい。

咳込む私と姉の手を
両手でしっかりと握る
母の横顔はどこか切なく、
私も姉もいつもだったら騒ぐところを
黙って歩いた。

これまで暮らしてきた
父の実家が遠のいていく。

そうして、
私たちは別の家で
暮らすこととなった。

二人の子どもを抱え、
フルタイムでこれまで以上に
忙しく働くことになった
母に代わって
私たちの面倒を見てくれたのは祖母。

父と母がもう一緒に
暮らすことはないのだと、
なんとなく離婚を悟る。

寂しい気持ちは
あったけれど、
それを口にしては
いけないような気がして、
母の前でいい子を演じていたような
そんな気がしていた。

自分らしくありたい

小学生の僕

新しい家で暮らすようになり、
私の友達はいつも鉛筆だった。

絵や漫画を描くことで
寂しい時間があっという間に
過ぎ去っていくようだったし、
なにより楽しかった。

小学校では
当時100マス計算に
取り組んでいたけれど、
私にはそれをうまく解くことができず、
しまいには勉強自体を嫌いになってしまう。

小学生の僕その2

今思えば、
みんなで揃って椅子に座り、
一斉に単純な計算式を
解かされるという空間が
苦手だったのかもしれない。

こんな私にとって、
学校の時間は苦痛でしかなかった。

家で一日中紙に
向かっていられたら幸せなのに……
義務教育の中で
私はそんな歯がゆい思いを常に持っていた。

その気持ちは中学生になっても変わらず、
いやむしろ悪化した。

ちょうど反抗期の真っ只中。

中学生の僕

視力が落ち、
メガネをかけるよう
言われていたもののかけることを
しなかった私は当然黒板を見ることが出来ず、
さらに勉強に遅れをとるようになった。

勉強が分からないから
また授業中にノートへイラストを描く。
通知表の成績を見た母親や先生からは
当然きつい言葉が飛んだ。

友達も私のことを
変わった奴だと思っていたに違いない。
イラストや絵の世界で生きていきたい。
漠然とそんな想いを抱えるものの、
それを分かってくれる人は誰もいなかった。

歌が好きで合唱コンクールの選抜に選ばれたり、
学級新聞の制作に勤しんだりもしたけれど、
頭の片隅にいつもあるのは絵のことばかり。

美術の成績だけが良かったのは言うまでもない。

グラフィックとの出会い

そんな折、
母親が仕事で使用するために
ノートパソコンを購入した。
当時のパソコンは
大きくて性能もあまり良くないのだが、
我が家のパソコンはその中でもランクの低いものだった。

けれど私には、そのパソコンがまるで宝箱に見えた。
電源を入れれば繋がる無限の世界。
魅了されるのに時間はかからなかった。

最初にはまったのはゲーム。
ネットを通じて顔も知らないだれかと協力し、
敵を倒していく。

そんなことが無料で出来るのだから、
家庭用のゲーム機からはすっかりと遠のいていった。

そして、このゲームに触れたことで、
インターネット上では
同じく無料でグラフィックを作成できることを知る。

現在でも多く使われている
フォトショップやイラストレーターのような
高機能のものは購入する必要があり、
中学生の小遣いではとても手が届かなかったけれど、
無料のアプリケーションでも
十分グラフィックを楽しむことが出来た。
私にとってのインターネットは夢の国のようだった。

こうなると当然空いた時間は
パソコンの前で過ごすこととなる。
画面の中に自分のイラストが描かれる。
「六角大王」というソフトを特に好んで使っていた。
難しい操作が少なく、
もちろん無料で利用が出来る。
インストールの必要もなく、
フロッピー1枚があれば
その中に私だけの世界を
広げることが出来た。

インターネット回線を通じてホームページを作成し、
新しい出会いも体験した。

ところが、母や教師は
そんな私に目くじらを立てた。

パソコンのやりすぎで
成績が悪いのだと思われていたのだ。
……事実そうなのだが。

そんな私も中学3年生になり
いよいよ受験の年が訪れる。

気持ちは一つだった。

「美術系に進学したい」

自分にはそれしかないと日々感じていたし、
美術以上に興味を持てるものはこれまでの
十数年で見つからなかった。

そうなれば、信じた道を突き進むしかない。

理想と現実

家族で住んでいた青森市に隣接する
八戸市には美術科を置く高校があり、
進路を考え始めた私は
早速体験入学に参加をする。

学校ではパステルを渡され、
バナナの絵を自由に描いた。
そのために作られた部屋で、
絵を描いている時間の楽しさを再認識した私は、
やはり自分の進む道は美術科しかない、と心に決める。
毎日美術のことだけ考えて過ごせたなら、
そんな幸せなことはないだろう。
その日から美術の先生から
受験のためのデッサンや基礎を学び始めた。

イラストを描いたり、
グラフィックを作ったり
これまでもしていたけれど、

美術を本格的に一つのジャンルとして
勉強することは初めてだ。

自分の左手をデッサンすることから
始まった受験対策を私は楽しみながら、
みるみるうちに技術を吸収していった。

そんな私に先生も優しくしてくれ、
いよいよ受験の日がやってくる。
第一志望はもちろん美術科、
そしてすべり止めとして市内にある
工業高校のインテリア科を受験することに決めた。

自信はあった。

そして合格発表の日。
私の番号を第一志望の美術科の
合格発表から見つけることができた。

「やった!」

これからは楽しい生活が待っている。
しかし、結局私が第一志望の
高校の門をくぐることはなかった。

第一志望の美術科のある
高校は私立でしかも市外にある。
一方のすべり止めに受けた
インテリア科のある高校は
公立で市内にある。

経済的に負担の
大きい美術科への進学を
シングルマザーである
母親に頼っていいのだろうか?

そんな想いが
突如として渦巻いたのだ。
すでに進学校へと進み
大学受験を控えている姉のことも頭をよぎり
私はせっかく手にした切符を捨てた。
そうして工業高校のインテリア科へと
入学することになったのだ。

居場所を探して

私の入学したのは工業高校のインテリア科。
インテリア科は女子率の高い科であったこともあり、
初日から居心地の悪さを感じた。

元来コミュニケーション能力が
高いわけでもない私は、
思い切り出鼻をくじかれ
一気にやる気を失ってしまう。

望んでいない勉強は面白くなく、
学校がとにかくつまらない。
あの時、美術科を選んでいたら……
今更ながら後悔をしてももう
過去へと戻ることはできない。

遅刻は当たり前。
悪友の家で夜更かしをしたり、
ゲームセンターで過ごすことが多くなっていった。

そんな私を家族は冷めた目で見ていた。
やがて、姉が進学校を卒業し、
国立大学への入学を
決めたことで余計にそれがひどくなる。

やれば出来る。

言われなくても分かっていた。
ただ、やりたいことが国立大学に行くことじゃないだけだ。

勉強ができるのがそんなに偉いのか……
そう感じながらも、
この家庭にいては劣等感を感じるだけで、
本来なら楽しいはずの
食事の時間すら辛くなる。

そんな私の居場所は一つだった。

パソコンの電源を入れると
そこには素の自分でいられる世界がある。

グラフィックの制作だけでなく、
この頃から自らのホームページを作り、
そこで完成した作品を公開するようになった。

そんなに多い人数ではなかったけれど、
作品を見て掲示板やメールで感想をくれる人もいて、
それが励みになりホームページの更新で忙しくしていた。

絵という特技を前面に出しているせいか、
インターネットでの人との交流はリアルな世界より気が楽で、
落ち着ける場所になっていった。

また、私の通う工業高校には情報処理科があり、
そこにはコンピューター室があったため、
次第に私はインテリア科ではなく情報処理科へ興味を持つ。

情報処理科には私と同じように
パソコンが好きな仲間が多くいたこともあり、
ようやく現実の世界で少し息をつくことができるようになった。

その仲間に混じり
コンピューター室に出入りすることが
出来るようになると、
放課後や昼休みの時間はそこで過ごすようになる。

ホームページの作成だけでなく、
3DCGの制作にも熱がこもった。
やはり、グラフィックの世界が好きなのだと感じた日々だった。

けれど、やはり終わりはやってくる。
ずっとこのままではいられない。

高校3年生になり、
再び受験シーズンがやってきた。

母親は私に美大を勧め、
私もそれしかないと従う。

美大専門の美術予備校に通う生徒が多い中、
私は独学で受験対策のデッサンを描いた。

しかし、力は及ばず受験した
美術大学には落ちてしまった。

浪人……そして専門学校へ

美大に落ちてしまった私は、
先を模索し始める。

結果美大に落ちたことで、
一つ気が付いたのだ。

私はきっと本気で美大には行きたくなかったのだと。

もし、なにがなんでも美大に進みたかったのだとしたら、
予備校にだって通っていただろう。

そうなれなかったのは、
乗り切れない部分がどこかにあったから。
当たり前のレールに乗せられることへの
違和感のようなもの。

だからといって、
周りの同級生のように
高卒で就職する気にもなれない。

行先を探しながら、
親のすねをかじる訳にはいかないと
接客のアルバイトをして貯金を始めた。

ところが、昼間の接客業では
パートのおばちゃんや、
失業し他に仕事がない人なんかで
年齢層が高く、18歳の私にはあまり居心地の良いものではない。

ここでアルバイトをしたことで、
今度は、これまでは馴染めないと
感じていた中学や高校の生活が恋しくなった。

少ないとはいえ仲間がいてくれた学生時代と、
今の孤立した状態だったら
確実に前者の方が恵まれていたのだ。

そんな生活だったので、
私はさらにインターネットにのめりこんだ。

貯めたお金でパソコンを購入し、
作品を作ってはアップする。

すると、ある日私の制作した作品が雑誌に掲載された。

認められた……それは心の底から嬉しい出来事で、
本来なら家族に一緒になって喜んでもらいたかったのだが、
母親から出るのはため息ばかり。

母の目には大学に落ち、
アルバイトをしながら
パソコンばかりをしている
息子が許せなかったのだろう。

見えないプレッシャーを感じつつ、
しかし私はもう美大への興味を失っていた。

パソコンで絵を作って売る、
そんな仕事がしたい。

誰に何を言われようと、
それがしたいのだから仕方がない。
これは他でもない私の人生なのだから。

夢に近づくために私が選んだのは
仙台にある専門学校だった。
専門学校なんて、と母親が思っているのには
気付いていたけれど、

それは見ないふりをした。
本当は分かって欲しい。
けれど、自分の気持ちに
ふたをすることに段々慣れてしまっていた。

いざ通い始めた専門学校は
遊び半分で来ているのでは?
と感じるような学生もいて、
そのチャラチャラとした
雰囲気があまり好きにはなれなかった。

それでも、自分はあくまでも学びに
来たのだと気持ちを切り替え、
まじめに授業に出席をする。
おかげで成績はいつも学年トップだった。
将来のためにと独学でデッサンを続けたり、
仙台の学生を集めたイベントに参加を
したことでデザイン制作の機会も与えられた。

金銭をそれほど多く貰ったわけではない。

けれど、自分の作ったデザインが
実際に使用されるのは感動であり、
デザイナーの末端に加わったような気持ちで嬉しくなる。

専門学校では1年の終わりころから
就職活動が始まるが、
成績の良かった私には多くの選択肢が与えられた。

ところが、私がしたいと思っていた
グラフィックデザイン関係の求人はそこにはなく、

他ジャンルの会社の内定で納得するのか、
どうするのか。
卒業ぎりぎりまで葛藤がつづいた。

そして、どうしてもデザインの
仕事がしたいと願い続けた私の想いが通じたのか、
恩師の先生から茨城県にあるデザイン事務所を紹介してもらえることとなる。

貰っていた内定をすべて断ると、
私は晴れてデザイン事務所の一員となった。
自分でつかみ取った、夢への架け橋だ。

現場で学んだたくさんのこと

デザインの仕事には終わりがない。
ここまでできたら終了、
という世界ではないため
入社してから毎日が午前様での仕事だった。

今でもそうだが、
どこで妥協をするかというのが大切になってくる。

ところが私は妥協をすることが
好きではないため、とことん仕事に取り組む。

そうして時間が削られる。

それでも、これまでとは違い、
やりたいことをやっているという
満足感があったおかげで不思議と辛くはなかった。

休日には都内まで出かけ、
ストレス発散だとお金を散財した。

お金がなくなれば家具工場で日払いのアルバイトをし、
また遊ぶ。

若さがあったからできたことだろう。
とにかく、仕事も遊びも同じくらい楽しんだ。

デザインの仕事に実際触れてみると、
そこに教科書のようなものはない。

先輩の仕事を見て学ぶしかないのだけれど、
ただ眺めていてもなかなか答えは出ない。

そこで、私はデザインの本を読み、
インターネットで調べ、講座や勉強会へも足を運んだ。

デザインのことならいくらでも貪欲になれた。

こうして知識を増やしていくことで、
クライアント側の疑問にすらすらと答えが出せるようになっていた。

一つ一つのデザインの良いところや、
どうしてこのデザインが必要なのかを
理論でも語れるようになったこの頃、
大きな転機が訪れる。

入社から3年目、
私の担当した大手印刷会社からの
案件が高く評価をされたのだ。

元請けの印刷会社の担当者の方が
非常に喜んでくれたのはもちろん、
そのデザインは全国版の新聞に一面広告として使われた。

相手に合わせるのではなく、
私らしさが生きた瞬間だったと思う。
この経験は大きな自信となった。

相手がイメージしているものを
言葉の中からつかむことに
長けている自分にも気が付いた。

相手の一歩先を行くことで、
依頼主が想像した以上のものが完成する。
すると依頼を下さった方からの信頼がぐんと大きくなり、
絆が太くなっていく。

同じころ、
専門学校の講師としての依頼がやってきた。
元来の性格から、
私はなにかにつけて答えを導き出すことが好きで、
その結果話が理論的になりやすい傾向がある。

また、知識を自分の中に留めておくことができず、
新しいことは周りに話さずにはいられないタイプだったため、
逆に気に入られたらしい。

実はこの講師の仕事は今でも続けている。
自分の時には満足に学ぶことの出来なかったデザイン教育。

私の教室はこんなことを教えて貰えたら良かったのに、
と学生当時に感じていたことや、
仕事を通じて学んだこと、
実践してきたことを詰め込んだ
理想的な空間になっていると自負している。

自分自身に生き方を問う

グラフィックデザイナーとしての
実績が増えるとともに、
頭のなかに思い浮かぶことがある。

それは独立。

他の業種と比べても、
デザインの仕事は個人の力量が大きく評価されるため、
個人で事務所を経営している人間は多い。

私もいつかは自分の事務所を立ち上げたい、
と思い始める。

長年デザインの仕事を見てきたからこそ、
地域の人にデザインが行き届かない理由、
デザインの意味が伝わらない原因がわかってきたのだ。

これを解決できる方法が見えてきた今、
それを実現できる組織を作るのなら自分しかいない、
そう思うようになっていた。

そんな時、幸いにも近くに
理念や経営についての講師をしている先生が住んでいた。

その先生は美術にも造詣が深く、
奥様のために作ったのだという
美術館へと足を運んだことがきっかけで
生き方を始めとした心のあり方について教えてもらうこととなった。

その中でも特に衝撃的だったのが
環境整備についてである。

一見なんの関係もなさそうな経営と環境整備だけれど、
先生に言われ事務所のトイレ掃除を実践してみたところ、
事務所全体が美化されていき驚いた。

環境の整った職場での仕事が
はかどったのは言うまでもない。

その他にも、先生の勧める本を音読し、
仲間と振り返ることでこれまで知らなかった自分の姿が見えてくる。

私にとってなにが一番大切なことなのか、
ようやく気がついた。

毎週朝7時から行われる読書の会は
不規則な生活を送っていた私にとっては厳しいもので、
寝坊し起こされることもしばしばだったけれど、
おかげで生活習慣の乱れも正されたと思う。

私はいつの間にか掃除が好きになっていった。

誰に言われたわけでもなく、
朝一番に出社して事務所のトイレ掃除をかってでた。

先生自身が率先してそうしていたからかもしれない。

アパートの前など公共の場の掃除もよくしていた。

いつの間にか、嫌なことがあったら
掃除をすると落ち着くようになっていたのだ。

環境がきれいになることで、
心の中もきれいになっていく。

これは、昔特撮ヒーローに
憧れていたころの感覚と似ていた。

気付かなかったけれど正義の心、
正しいことをして人に喜ばれたいという
意識がずっと私の胸の奥にあったに違いない。

仕事に対してもこの姿勢でいよう。

デザイナーとして独立する日がきたならば、
自分が正しいと思う方法で、
相手に笑顔になってもらえるような仕事がしたい。

これまで揺れていた自分の心が、
ようやくあるべきところに落ち着いたようなそんな気分だった。

つらい経験を糧にして

ところが、やっと自分の方向性が定まってきたというのに、
私は自分で自分を傷つけてしまう。

車で仕事に向かう途中、
時速80キロのスピードで電柱にぶつかったのだ。
スピード違反、さらにシートベルトは未装着。

他の誰でもない、自分の責任だ。

奇跡的に顔に傷を負っただけで命に別状はなかった。

作品を作り出すために
必要な両の手を残してくれた神様に感謝をした。
と同時に、自らの甘さを痛感する。

少し調子に乗っていた部分もあったのかもしれない。

この喝を受け入れ、
同じ失敗を二度としてはいけないと心に刻む。

10日間の入院の後、
私はすぐに仕事に復帰した。

「どうしてもやらなければいけないことがあるんですか?」

そうじゃないならもう少し休んでは……と医師や看護師は言ったけれど、
救われた命で一刻も早く自分の居場所に戻りたかった。

また、この頃僕は離婚を経験した。

同棲期間を経ての結婚だったけれど、
性格の不一致で2年もたたずに独り身となる。

一緒にいるときは
相手の悪いところばかりが
見えて仕方がなかったはずなのに、
一人になるとどうしようもなく
寂しい気持ちに襲われ、
勝手に涙があふれ出す始末。

寂しい気持ちは心までを弱らせる。
どうして私だけ……そんな想いが巡り、
私なんて死んだ方がましなのでは、
という考えまでが浮かんでくる。

今思えば心の病の一歩手前だったのだと分かるものの、
当時はそんなことは考えもせず、
ただ自分を責めて過ごしていた。

そんな私を暗闇から引きずり出してくれたのは
一冊の本の存在だった。

心の自立について書かれたその本を読むことで、
責めるだけではなく、
自分自身を見直すことの必要性に気が付いたのだ。

離婚もそうだが、
人は同じ空間にいたとしても、
同じ方向を向いているわけではない。

会社でも同じだ。

共通したスローガンがあったとしても、
皆が同じ歩調で真摯に進んでいるわけではない。

自分勝手で、自分が可愛くて、
だけど一人では生きられない。

人間とはそういうものなのだと
認めてしまうことで楽な気持ちになれた。

そして、すべてを認めたうえで、
私はもっと強くなりたいと決意した。

独立、そして未来へ

それから数年後、
私は10年務めたデザイン事務所に別れを告げ
「株式会社一円」を立ち上げた。

この間に、
ファシリテーショングラフィックや問題解決学
情報統合技術(IST)を学ぶなど、
自分が興味を持った分野にはとことん向き合っていった。

そして、それらの知識は
すべてデザインの仕事で生かすことができた。

また、事務所時代には
面倒だと言われる案件を任されることが多く、
その経験は独立にあたり大きな力となっていった。

面倒というのは気持ちの問題だ。

一度面倒だと思ってしまえばそれまでだが、
細かい注文を下さるクライアント様というのは
それだけデザインに懸ける期待が大きいということでもある。

緻密な打ち合わせを重ね、
理想のデザインを作り上げていくプロセスを
面倒ではなく心から楽しむことで、
より一層の信頼が得られるようになっていく。
それが心から嬉しい。

短期間で、それなりのものを作る
ことはもちろん出来るけれど、
それならその仕事をするのは私じゃなくて構わない。

すべては完成したデザインを見た時に、
一緒にすがすがしい笑顔になれるかどうかに尽きる。

もう一つ、デザインにはどうしても個性があり、
好き嫌いが生まれることがある。

もしそれが、いくら高額な案件だったとしても、
私では完成させることができない場合には引き受けない、
それがポリシーだ。

教科書通りのものを納品することは出来る。

しかし、それでは自分が納得できない。
後からその作品を納品したことで
後悔する可能性があるのなら、潔くお断りをする。

そして、私の考え方に共感していただける方とは
何度でも相談を重ね、誰にも負けない誇りと自信をもって
出来上がったデザインを提供していこう。

こうした私のスタイルをいつしか支持して下さる方が増え、
多くの応援を頂いたおかげで私は
今、ここでデザイナーとして立っている。

エピローグ

「一円」には一円融合という経営理念がある。
これはすべてのものは一つの円のなかで互いに作用することによって、
成果を産み出していくという意味の言葉だ。

人だけじゃなく、私のこのような過去も一円の中においては
必要なことだったのだろう。

後悔はもういらない。

辛かったことも苦しかったことも人生経験として、
私の今後につなげていく。
失敗しているからこそ、
それを糧として力に変えていくのだ。

私はこれからもずっと
この信じた道を突き進むだろう。

対話の中でヒントを生み出し、
自分にしか出来ないデザインを、
誠意をもって提供させて頂くつもりだ。

もちろん、私を変えてくれた清掃の精神は忘れず、
地域のためにゴミ拾いや清掃活動も忘れない。

こうした考えに少しでも賛同して頂けたなら、
是非あなたの仕事のパートナーとして声をかけて貰いたい。
同じ円の中、最高のデザインが生み出せるよう
私は今日も自分自身と向き合っている。

【END】

ここまで、読んでいただいてありがとうございます。

こうして、ご縁をいただいたあなたと、是非一度お話がしたいと思います。

なので、

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デザインの話、経営の話、人生の話・・・きっと深い話ができるとおもいます。

「物語を読みました」と言っていただければ幸いです。

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